高輪の泉岳寺(2)
●泉岳寺(せんがくじ)・・・・・東京都港区高輪二丁目にある曹洞宗の寺院慶長17年(1612年)に徳徳川家家康が外桜田(桜田門周辺)の地に門庵宗関を招いて創建した寺院。寛永18年(1641年)の寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、長府毛利・笠間浅野・鹿沼朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された。御手伝普請の大名は菩提寺とする事で徳川への忠誠を示す。元禄14年(1701年)3月、松の廊下の刃傷により切腹した浅野長矩が、次いで元禄16年(1703年)2月、元禄赤穂事件で赤穂義士が葬られた。
長矩正室の瑤泉院(阿久里)、長矩実弟の浅野長広(浅野大学)、長広の代々子孫、大石家の墓所も当寺にある。浅野大学家と大石大三郎家(小山流)、広島藩の大石別家(横田流)も断絶したが、瀬左衛門の家が赤穂藩(森家)大石宗家としてかつての主君や義士の祭祀を継承している。今も義士祭などに参加されている。
●浅野長矩墓および赤穂義士墓・・・・・元禄14年3月14日江戸城中で吉良義央(上野介)に対し刃傷沙汰に及び、即日切腹となった赤穂藩主浅野長矩(内匠頭)の墓、及び、元禄15年12月14日、江戸本所の吉良屋敷に押し入って吉良の首級を上げ、翌年2月4日に切腹となったいわゆる赤穂浪士(泉岳寺では「赤穂義士」と呼んでいる)の墓である。一般に赤穂浪士は「四十七士」と呼ばれるが、泉岳寺の赤穂義士墓地には、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い討ち入り前に切腹した萱野三平重実の供養墓「明和4年(1767年)9月建立」を含め48基の墓塔がある。48基のうち、萱野三平と、遺骸を遺族が引き取ったため泉岳寺には埋葬されていない間光風(新六)、討入りに参加した浪士の中で唯一人切腹をまぬがれた寺坂信行(吉右衛門)の墓塔は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔である。なお寺坂以外の浪士の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっている。(フリー百科事典ウィキペディアより)
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泉岳寺の浅野内匠頭長矩公の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の浅野内匠頭長矩公の正室の搖泉院(名は阿久里)の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の浅野家の墓・・・・・ 浅野内匠頭長矩の実弟の浅野長広(浅野大学)から、長楽まで浅野長広(浅野大学)家の歴代の墓がある。(2019/11/21) |
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泉岳寺の浅野家の墓・・・・・ 浅野内匠頭長矩の実弟の浅野長広(浅野大学)から、長楽まで浅野長広(浅野大学)家の歴代の墓がある。(2019/11/21) |
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泉岳寺の浅野家の墓・・・・・ 浅野内匠頭長矩の実弟の浅野長広(浅野大学)から、長楽まで浅野長広(浅野大学)家の歴代の墓がある。(2019/11/21) |
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泉岳寺の浅野家の墓・・・・・ 浅野内匠頭長矩の実弟の浅野長広(浅野大学)から、長楽まで浅野長広(浅野大学)家の歴代の墓がある。(2019/11/21) |
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泉岳寺の浅野家の墓・・・・・ 浅野内匠頭長矩の実弟の浅野長広(浅野大学)から、長楽まで浅野長広(浅野大学)家の歴代の墓がある。(2019/11/21) |
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泉岳寺の素願成就の梅「八ツ房の梅」の謂われの説明版(2019/11/21) |
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泉岳寺の義士墓の解説(2019/11/21) |
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泉岳寺の義士の墓守をしていた堀部妙海尼の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺のずらっと並んだ赤穂義士の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の赤穂義士の墓で8列の一番奥の囲いの外は堀部安兵衛武庸の墓でその左は中村勘助正辰の墓でその左は菅谷半之丞政利の墓でその左は不破数右衛門正種の墓でその左は木村岡右衛門貞行の墓でその左は千馬三郎兵衛光忠の墓でその左は岡野金右衛門包秀でその左は貝賀弥左衛門友信の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の赤穂義士の墓で5列の一番右奥は村松喜兵衛秀直の墓でその左は杉野十平次次房の墓でその左は勝田新左衛門武堯の墓でその左は前原伊助宗房の墓でその左は小野寺十内幸右衛門秀富の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の赤穂義士の墓で5列の一番右奥は岡嶋八十右衛門常樹の墓でその左は吉田沢右衛門兼貞の墓でその左は武林唯七隆重の墓でその左は倉橋伝助武幸の墓でその左は間新六光風の墓・・・・・間新六光風の遺骸は義兄の中堂又助に引き取られ築地本願寺に葬られた。切腹した46人の浪士の中では唯一、泉岳寺に墓がない。享年24。泉岳寺にある間新六の供養墓は他の義士の墓と一緒に建立されました。(2019/11/21) |
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泉岳寺の赤穂義士の墓で3列の一番右は奥田貞右衛門行高の墓でその左は間十次郎光興の墓でその左は寺坂吉右衛門信行の墓・・・・・寺坂吉右衛門信行は本懐成就後、搖泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のちに江戸に戻って自首しましたが赦され、麻布・曹渓寺で83歳の天寿を全うしました。現在も曹渓寺に眠っています。この寺坂の墓は慶応4年(明治元年・1868年)6月に供養のために建てられた遺骸の伴わない供養塔です。(2019/11/21) |
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泉岳寺の赤穂義士の墓で7列の一番右奥は神崎与五郎則休の墓でその左は三村次郎左座衛門包常の墓でその左は横川勘平宗利の墓でその左は茅野和助常成の墓でその左は間瀬孫九郎正辰の墓でその左は村松三太夫高直の墓でその左は矢頭右衛門七教兼の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の赤穂義士の三回忌に建立した地蔵尊と左側の大石瀬左衛門信清の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の赤穂義士の墓で6列の一番右は大石瀬左衛門信清の墓でその左は矢田五郎右衛門助武の墓でその左は奥田孫太夫重盛の墓でその左は赤埴源蔵重賢の墓でその左は早水藤左衛門満堯の墓でその左は潮田又之丞高教の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の赤穂義士の墓で3列の一番右は大石瀬左衛門信清の墓でその左は矢田五郎右衛門助武の墓でその左は奥田孫太夫重盛の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の赤穂義士の墓で3列の一番右は赤埴源蔵重賢の墓でその左は早水藤左衛門満堯の墓でその左は潮田又之丞高教の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の大石内蔵助良雄の墓でその左は吉田忠左衛門兼亮の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の大石内蔵助良雄の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の大石主税良金の墓で囲いの外の左側の小さい墓は堀部安兵衛武庸の墓・・・・・囲いの中の右は義士の13回忌供養碑で左が大石主税良金の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の大石主税の墓・・・・・囲いの中の右は義士の13回忌供養碑で左が大石主税良金の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の赤穂義士の墓・・・4列の一番右は吉田忠左衛門兼亮の墓でその左は原惣右衛門元辰の墓でその左は片岡源五右衛門高房の墓でその左は間瀬久太夫正明の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の赤穂義士の墓・・・3列の一番右は間瀬久太夫正明の墓でその左は原惣右衛門元辰の墓でその左は間喜兵衛光延の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の赤穂義士の墓・・・5列の一番右は間喜兵衛光延の墓でその左は磯貝十郎左衛門正久の墓でその左は堀部弥兵衛金丸の墓でその左は近松勘六行重の墓でその左は富森助右衛門正因の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の赤穂義士の墓・・・右は村松喜兵衛秀直の墓でその左は杉野十平次次房の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の赤穂義士の墓・・・大石瀬左衛門信清の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の赤穂義士の墓・・・右は大石瀬左衛門信清の墓でその左は矢田五郎右衛門助武の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の大石内蔵助良雄の墓と墓の囲いの左は吉田忠左衛門兼亮の墓でその左は原惣右衛門元辰の墓でその左は片岡源五右衛門高房の墓(2019/11/21) |
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泉岳寺の大石家の墓・・・・・赤穂義士墓とは別に、良欽・良昭と良恭から大石家最後の当主・多久造まで歴代の墓がある。(2019/11/21) |
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泉岳寺の高島嘉右衛門の墓碑・・・・・高島易断創始者の石碑。高島 嘉右衛門 は、幕末から明治にかけて活躍した横浜の実業家、易学家である。江戸三十間堀生まれで、幼名は清三郎。後に嘉兵衛、嘉右衛門と改名した。号は呑象(どんしょう)。(2019/11/21) |
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泉岳寺の高島嘉右衛門の墓碑の説明版(2019/11/21) |
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