須坂市の高井鴻山の墓

●高井鴻山(文化3〜明治16年/1806〜1883)・・・・・幕末維新の激動期に、その時局の変化に対応しつつ、陽明学(儒学の一派)の教え「知行合一」の精神で“国利民福”の信条をつらぬいた人である。 15歳から16年にわたり、京都や江戸へ遊学し、各界第一人者から多彩な学問や芸術を修めた。自由で幅広い人脈を築いた鴻山は、父の死により高井家の当主となってからも、学問芸術に情熱を傾けた。佐久間象山をはじめ当時の日本史を彩った思想家や文人たちと交流し、日本の行く末を憂い、巨万の財力を惜しみなく使い幕末の変革に関わった。 また、江戸の浮世絵師葛飾北斎をはじめ多くの文人墨客を招き、小布施を文化の香り高い地に育んだ。飢餓には窮民を救い、維新後は教育立県を強調し、東京や長野に私塾を開いて教育活動に専念した。
●祥雲寺・・・・・高井鴻山の墓や当地における女子教育の先駆者智関禅尼の墓のほか、幕末の三舟や松代三山(佐久間象山、山寺常山、鎌原桐山)の遺墨、鴻山の遺品や漢詩碑などがある。表通りは多くの観光客が行き来するが、祥雲寺境内に人影はなく、落ち着いて散策することができる。
●高井鴻山漢詩碑・・・・・「村南に祥雲寺あり」から始まる鴻山の漢詩が刻まれている。高井家の菩提寺である祥雲寺を訪ねた鴻山はやがて己もこの地に身を埋めることになることに想いを馳せ、「人生幻夢なるのみ」と詠んでいる。 
●耕文院泰賢鴻山居士(高井鴻山の墓)
●智関禅尼の墓・・・・・智関禅尼は享和年間(1801〜1803)の生まれと推定される岩井新田(現・中野市岩井東)池田家五代茂平の娘。活文禅師の没後弘化二年(1845)、鴻山の情誼により、高井家の施主寮に即心庵を二十余年結んだ。仏事の傍ら寺子屋を開き、近郷の子女を集め、茶式・弾琴・書道・歌道・礼法を中心に女子教育に専念した。


須坂市の祥雲寺(2011/11/12)
須坂市の祥雲寺(2011/11/12)
須坂市の祥雲寺(2011/11/12)
須坂市の祥雲寺の高井鴻山漢詩碑・・・・・「村南に祥雲寺あり」から始まる鴻山の漢詩が刻まれている。高井家の菩提寺である祥雲寺を訪ねた鴻山はやがて己もこの地に身を埋めることになることに想いを馳せ、「人生幻夢なるのみ」と詠んでいる。(2011/11/12)
須坂市の祥雲寺の高井鴻山漢詩碑の読み下し文(2011/11/12)
須坂市の祥雲寺の智関禅尼の墓(2011/11/12)
須坂市の祥雲寺の智関禅尼の墓(2011/11/12)
須坂市の祥雲寺の高井鴻山の墓の説明(2011/11/12)
須坂市の祥雲寺の高井鴻山(耕文院泰賢鴻山居士)の墓(2011/11/12)
高井鴻山と関係のあった人々の表(小布施町の高井鴻山記念館の資料より)(2011/11/12)